三味線とダンディズム

子供の頃、仲間たちと川辺で遊んでいると、
どこからともなく三味線の音が聞こえて来ました。
初めて見る男の顔でした。
我々を見ているような、いないような。
言うなれば、我々には見えない何かを見つめながら、一心不乱に爪弾く三味線の音色でした。
どうしたことでしょう、いつの間にか我々は手拍子をし、足ではリズムを取り、
踊ったことがない踊りを踊っていたのでした。
そして、どれくらい経ったのでしょうか。
我々は地面の上に放心状態で大の字になっていました。
ゆっくりと起き上がってみました。もう、あの男の姿はありませんでした。
誰かが叫びました。「財布がない。」
みんなはそれぞれポケットの中に手を入れました。
有り金残らず持っていかれたようでした。
しかし、不思議なことにその時の我々の心には怒りも憎しみもこれっぽっちもなかったのです。
その代わりに、何かはっきり言い表すことができないものに対する、匂いたつような憧れだけが残ったのです。

今になって思えるのですが、その言い表すことができなかったものとは、
男にとって何より必要なもの、ダンディズムだったのです。

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